吉田松陰の生い立ち
江戸時代末期に活躍した「吉田松陰」についてご存知でしょうか。吉田松陰は、「松下村塾を開いた人」、「高杉晋作や木戸孝允の先生」などで有名ですが、具体的にどのような人物で、どんな名言・格言を残したのか、はっきりとはわからない方が多いのではないでしょうか。そんな方のために、まずは吉田松陰の生い立ちから見ていきましょう。
生まれはかつての長州藩である山口県
江戸時代、山口県は「長州藩」と呼ばれました。長州藩は、戦国武将の「三本の矢」の教えで有名な毛利元就を先祖に持つ毛利家が治めていました。江戸幕府の開祖である徳川家康と関ヶ原の戦いで争い、敵方についた毛利家は大きく領土を失ってしまいました。その後は完全に徳川家に属することになりますが、その時のいきさつから、「反徳川」「反幕府」という思想が根付くことになります。
そのような背景がのちに「尊王思想」と結びつき、「討幕」の流れへと加速する一因となるのですが、その魁となった人物として挙げられる人物が吉田松陰です。
吉田松陰は、1830年に長州藩藩士の杉百合之助の次男として生まれました。杉家は非常に貧しい家でしたので、畑仕事などをしながら勉強に励みました。
才能を開花し9歳で学校の先生になる
4歳で叔父の吉田家の養子に入りました。叔父が山鹿流兵学師範だったことから兵学を修めて、家督を継いだあとはその才能を認められ、わずか9歳で藩の学校(藩校)の明倫館で先生になりました。さらに、11歳で藩主の毛利敬親に認められて「天才」と称されます。
その後19歳で兵学教授となりました。藩主の信任も厚く、20歳になると西洋の兵学を学ぶために九州に遊学することも許されました。そして、その後江戸へ出たことで、吉田松陰の人生に大きな影響を与える人物と出会います。
佐久間象山に師事しペリー来航で留学を志す
佐久間象山は、現在の長野県である「信濃松代藩」の藩士で藩随一の洋学研究者でした。西洋学だけではなく、砲学・数学・科学・蘭学などさまざまな学問に秀でた人物でした。当時、江戸の木挽町にある松代藩邸に私塾を開いていた象山に吉田松陰は師事し、学問を究めていきます。
その後、1853年にペリーが浦賀に黒船を率いて来航しました。それを見た吉田松陰は、外国留学を決意して、当時長崎に停留していたロシア船に密航しようとして失敗します。また、翌年ペリーが再来航した際に再度密航を試みましたが、またしても失敗し、その後自首して身柄は長州藩に送られました。
松下村塾開校と安政の大獄
密航に失敗した吉田松陰は、1855年に仮出獄したあと、叔父である玉木文之進の「松下村塾」を引き継ぎました。その後、塾舎に寝起きしながら塾生たちに学問を教え、多くの名言・格言を残しました。のちの明治維新の功労者や回天の英雄の多くがその門戸をくぐり、彼の言葉を格言として心に残していくことになります。
1858年に、幕府は日米修好通商条約を結びました。その後反対者を弾圧する「安政の大獄」が始まると、吉田松陰は幕府への批判を強め、幕府の老中の暗殺を計画しました。そして、塾生の反対を押し切って実行に移そうとして捕らえられ、1859年に江戸伝馬町の牢獄で斬首されました。
吉田松陰の性格
数々の名言・格言を残した吉田松陰は、波乱万丈の人生を送りました。その激しくも短い人生の中で生まれた名言・格言は、彼が自ら意識して発した言葉というよりは、彼の人生で学んだ経験則と、国に対する純粋な想いから発せられた言葉であり、それがのちの人々の心に響き、いまもなお名言・格言として残っていると言えるでしょう。
では、後世に名言・格言を残し、多くの人物に多大な影響を与えた吉田松陰は、どのような性格だったのか考えてみましょう。
熱血漢で後先考えない
吉田松陰は、いまも語り継がれる多くの名言・格言を残した人物ですが、彼は江戸で学問に打ち込んでいた頃、友人に東北旅行に誘われ、長州藩に許可を願い出ました。しかし、なかなか許可が出ず業を煮やした吉田松陰は、藩の許可を待たずに脱藩して東北に旅立ちます。「友を待たせたくはない」という気持があったと言われますが、脱藩した結果謹慎処分となり、世禄没収のうえ、史跡はく奪処分にもなりました。
また、先述のように、西洋の進んだ文明を日本に持ち帰って改革を実行するために密航をしようとしたり、自らの政治信念のために要人暗殺を企てたりもしました。このことから、情熱的で、先のことを考えて行動をしない性格であったとも言えます。
しかし、その一方で、吉田松陰の名言・格言の中には、「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」という言葉があります。もしかしたら、すべてを知ったうえで、自分の情熱をコントロールできずに悩み苦しんでいたのかもしれません。
誠実
先述の通り、吉田松陰は、友人を待たせないために脱藩することも厭わないくらい誠実な性格だったと言えますが、次の逸話にもこれが表れています。
ある日、吉田松陰が友人宅に泊まりに行ったとき、その家が火事になりました。そのとき松蔭は、自分の持ち物には一切手を付けず、その家の人の道具を持ち出すことに終始した。その理由は、いまも名言・格言として次のように残されています。「一家の主であれば大切なものは多いはず。それに比べれば私の持ち物はいずれも大したものではない」と。
吉田松陰の名言・格言はたくさんありますが、彼が特に好んで使ったのが、「至誠」という言葉です。これは、もともと彼が傾倒して深く学んだ「孟子」という中国の学問の中にある言葉です。彼はこれを、「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」つまり「誠を尽くして人に接すれば、心を動かさない者はいない」と説きました。いまにも通ずる名言・格言であると言えます。
吉田松陰の名言・格言まとめ
吉田松陰の名言・格言は枚挙にいとまがないほどありますが、その中でも、特に現在のビジネスシーンでも役立つ名言・格言を中心にいくつかご紹介します。
名言・格言その1 教育の根底にある考え方
「教えるの語源は『愛しむ』。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない」
吉田松陰は、松下村塾で門下生ひとりひとりの才能を見出し、それを伸ばすための方向付けをしていきました。複数の門下生と真剣に討議(今で言うディスカッション)したり、講義を開いたり、手紙を書いて個別に大切なことを伝えたり、型にはまらない独自の教育をしていました。その根底にある、人を育てるうえでの彼の考え方だと言えます。
名言・格言その2 モチベーションや志に対する考え方
「大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである。」
この名言は、現在のビジネスシーンにおいて非常に重要であり、今なお色褪せておりません。上司からせっかく仕事を任されても、自分の才能を誇るがゆえに周りを見下したり、手を抜いていては、それを遂行することは困難です。まず何よりも大事なのは「やる気」であり「努力すること」です。それがあって初めて、どんな困難な仕事でも乗り越えられるのであり、成長につながるのです。
この名言は、つまり、多くの門下生に「モチベーション」と「志を持つこと」の大切さを伝えました。
名言・格言その3 成功するための考え方
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」
この言葉は、吉田松陰の名言・格言として最も有名であり、現在もビジネスシーンなど至るところで引用されます。
古今東西、大きな仕事を成す人物とは、夢を持ち、その実現のために多大な苦労と経験を積んできた人々です。彼らは入念な準備をしてじっくりと構えることで、チャンスを自分のものにしていきます。この言葉を残した松陰自身が大きな夢を持って邁進したからこそ、ビジネスで活躍する多くの人々の心に深く刻み込まれているのではないでしょうか。
吉田松陰の想いを活かせば成長につながる
吉田松陰の残した名言・格言から、以下のポイントが見えてくるでしょう。それは、「志を持つこと」は非常に重要であり、また「学問のための学問」ではなく「実用的な学問」を学ぶよう推奨していることです。夢と希望を持たせるようなポジティブな内容が多いことも、いま多くのリーダーが格言として用いている理由なのかもしれません。
松陰は亡くなる直前、ぎりぎりの精神状態にありました。自分が立てた計画が破れたときに、「草莽崛起の人を望む外頼みなし」と嘆くかのように発した言葉があります。これは、自分が抱いた夢を、動乱の幕末期を引き継ぐ若者たちに呼びかけた言葉だったと言えるでしょう。
教育者・指導者・思想家として吉田松陰が残した言葉を名言とし、現在のビジネスで活用すれば、企業や社員ひとりひとりの成長につながるのではないでしょうか。