「岡本太郎」という人物
「岡本太郎」を知っていますか?
日本を代表する現代芸術家である岡本太郎を、全く知らないという人は少ないのではないでしょうか。「太陽の塔」「建築」など、驚くほど鮮やかな色使い。奇抜ともいえる形。1度目にしたら忘れられない、強い印象をもたらす作品ばかりです。そして、彼が残した名言・格言も、強い意思を感じさせるものです。
実は、岡本太郎の作品は、多くの人が通過しているであろう渋谷駅に恒久展示されています。普段、何気なく通っている渋谷マークシティー連絡通路、そこに飾られた巨大な一枚の壁画。それが岡本太郎の「明日の神話」という作品なのです。
この記事では、岡本太郎の名言・格言をご紹介していきます。
岡本太郎、その生い立ち
岡本太郎は、明治44年(1911年)2月26日、神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区2子)にて生まれました。
父親は漫画家の岡本一平、母親は歌人で小説家の岡本かの子です。残念ながら、理想的な夫婦とも、両親とも言えない2人でした。浪費家で放蕩な父と、文学に熱中し子どもには見向きもしない母です。
ただ、母・かの子は、太郎を物心ついた時から「1人前として扱っていた」とも言えます。岡本太郎のブレない姿は、作品群や名言・格言からも分かりますが、両親からの影響も強かったのです。
そんな家庭環境からか、太郎は大人に理不尽に抑えつけられることに我慢がならず、「世渡り」をいっさいしない子でした。迎合することが大嫌いだったのです。その姿勢は大人になっても変わらず、太郎が残した数々の名言、格言にも滲み出ています。最初の小学校は退学、その後も転校を繰り返しています。勉強は大嫌いで、成績も全く振るわなかったそうです。
絵を描くことが好きだった点は、幼少時から変わりませんでした。
岡本太郎の性格
岡本太郎とは、どのような人物だったのか。奇抜な作品群、遠慮のない名言・格言を見ると、とても変わった人というイメージになりがちですが、実はそうではありませんでした。
「私はずっと傍にいたから、よく知っている。岡本太郎は決して特別な人ではなかった。優しくて、デリケートで、神経は鋭いし痛がり屋の、ほんとうは弱虫といった方がいいタチの人だった。ただ、決意したのだ。その決意を貫いた。決して変えなかった。」
岡本敏子/『岡本太郎の仕事論』(平野暁臣 2011:7ページ)
岡本太郎のすごいところは、「迎合しない」姿勢を子どもの頃から貫き通したところです。今では重視されがちな「空気を読む」「周りを尊重して合わせる」ことを、敢えて全くしませんでした。
当時、評論家を芸術家が批判することなど考えられない時代でしたが、太郎は面と向かって喧嘩を売り、その矢面に立つことを選びました。過激とも言える彼の名言、格言は、そういった姿勢から生まれたものなのです。
岡本太郎が残した、名言・格言集
権威に媚びない姿勢をあらわす、名言
■名言「法隆寺は焼けてけっこう。」
岡本太郎は媚びない人でした。さらに、彼は上記の言葉の後に「自分が法隆寺になれば良いのです。」と言い放ちます。しかも、時は法隆寺が火災になった直後です。
今では名言だとはいえ、芸術にあまり興味がない人でも、自信過剰だと思ってしまいそうな一言です。しかし、太郎は言い訳も撤回もしません。もちろん、言い出した以上、後には引けません。生半可なことはできなくなります。彼は、そうやって常に自分を追い込みました。
「安全」「無難」に逃げこまない
■名言「ほんとうはそっちに進みたいんだ。危険だから生きる意味があるんだ。」
岡本太郎は、何かを選択するとき、必ず「危険な道」を選びました。もちろん、そのことで追い詰められることはわかっていました。けれども、逃げ出すことは許せなかったし、それが生きる意味だと真面目に信じていたのです。
また、岡本太郎はこのような格言も残しています。
「それは、「必ず」でなければダメなんだ。仮に今までずっとマイナスを選んできたとしても、あるときふっと弱気になって楽な方を選んでしまったら、それまでやってきたことの全てが崩れてご破算になってしまう。それだけの覚悟がいることなんだ。」
岡本太郎が自らに課した厳しさが見える格言です。
最後までブレなかった岡本太郎の「生き方のスジ」
■格言「自分自身の生き方のスジは、誰にも渡してはならない。」
「生き方のスジ」という言葉を、岡本太郎は愛用したそうです。「生き方のスジ」、この言葉だけでも、名言だと言えるでしょう。
通常では考えられないことかもしれませんが、岡本太郎は、なるべく良い可能性をたくさん残そう、できるだけ逃げ道をとっておこう、とは全く考えませんでした。それが岡本太郎の「生き方のスジ」でした。
岡本太郎の名言・格言からは、「生き方のスジ」を貫こうとする覚悟が、ひしひしと伝わります。岡本太郎は、以下のような格言も残しています。
■格言「逃げない。はればれと立ち向かう。それが僕のモットーだ。」
■格言「危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。」
大阪万博を成功に導いた、名言と格言
■格言「成功しようと思うな。及第点をとろうなんて考えるな。」
■名言「60点とったものが並んだって、ちっとも楽しくないじゃないか。思いっきりやりたいことをやればいいんだ。安全なものなんかつまらないだろ? 失敗したっていい。0点でいい。その方がいいんだ。それが祭りだ。」
奔放だった岡本太郎を「周囲から浮いていて、仕事人としては失格なのでは」と思われる方もいるかもしれません。しかし、岡本太郎の周りには、あらゆるクリエイターたちが集いました。その中には、かの国立新美術館を建築した黒川紀章氏も含まれています。
上記の格言・名言は、かの大阪万博でプロデューサーをやった際の言葉です。万博を前にしてプレッシャーで固まっていた担当者たちを、この言葉でほぐしていたそうです。一見、自己中心的な岡本太郎ですが、プロデューサーとして非常に優れていました。この名言・格言は、それがよくわかるものです。そして、大阪万博は大成功に終わっています。
岡本太郎にとって「芸術」とは何だったのか
■格言「芸術はすべての人間の生まれながらもっている情熱であり、欲求である。」
岡本太郎にとって、制作とは目的ではなく、手段でした。上記の格言のほか、「人生、即、芸術。」と言う言葉も残しています。これらの言葉からも、岡本太郎がいかに異色の存在であったかが分かります。岡本太郎にとって芸術とはどのようなものだったかを、端的に示す言葉だと言えます。
■名言「本職? そんなのありませんよ。バカバカしい。もしどうしても本職って言うんなら『人間』ですね。」
岡本太郎自身にとって、職業でさえ「芸術家」ではなかったのです。岡本太郎は、ごく普通の一般市民の感覚に寄り添おうとした人でした。権威主義に反発し、芸術が一般の人々には遠すぎる、何か高尚なものであるかのように扱われるのは、嫌いでした。
尊敬するものこそ、乗り越えなければならない壁
■名言「ピカソに挑み、のり越えることがわれわれの直面する課題である。」
■名言「われわれにとってもっとも偉大であり、太陽のごとき存在であればこそ、かえって神棚からひきずり下ろし、堂々と挑まなければならないのだ。」
岡本太郎がピカソの作品に出会ったのは21歳の時です。絵描きとは、芸術とは何なのかと悩み続けていた時でもありました。岡本太郎はピカソを心から尊敬していましたが、もっとも偉大と認める芸術家を「超える」ことを誓うなど、なかなかできることではありません。また、今では名言であっても、当時は激しく批判されました。こちらもまた、太郎の「生き方のスジ」が垣間見える言葉です。
「普通の人」を励ます、岡本太郎の言葉
格言に見る、岡本太郎の誇り
■格言「自分全体に責任をもって、堂々と押し出す。それがプライド」
奇抜な作風、過激な名言や格言……それらを見ると「岡本太郎は奇人変人」と思われがちです。しかし、太郎の秘書であった平野暁臣氏によれば、太郎は「普通の男」だったそうです。勉学が優秀であったわけでもなく、生まれついての天才でもありませんでした。
岡本太郎が残した、さまざまな言葉が私たちに響くものであるのは、彼自身がごく普通の人であり、また権威に寄らない一般人の味方でもあったからです。そしてブレず、媚びず、信念を貫き通したからです。
誰にでもできることではないし、言えることでもないけれど、とてもカッコイイのです。皆さんも、自身を奮い立たせたいとき、岡本太郎が残した名言・格言の数々を、思い出してみていただければと思います。
岡本太郎を突き動かした、エネルギー源とは
■格言「憤り、己れを貫き、表現することこそ、最も純粋な人間の証しである。」
■名言「自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任をもって、堂々と押し出す。それがプライドだ。他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。」
これまでの名言や格言にもにじみ出ていますが、岡本太郎を突き動かしていたエネルギーには「怒り」が多分に含まれています。「自分全体に責任をもって」など、言うのは簡単ですが、誰にでもできることではありません。生涯、そうであることをやめなかった岡本太郎だからこその格言です。
未来を変えられるのは、自分自身しかいない
■格言「いまないものは、将来にも絶対にない。」
岡本太郎は、「未来」という曖昧なものに頼りませんでした。また、「空気を読んで皆で1歩を踏み出す」よりも、自分が生贄になって最初の1歩を踏み出す方を選んでいました。それが率直に現れているのが、この格言でしょう。この格言は、生涯のパートナーだった岡本敏子に、強い影響を与えたそうです。
岡本太郎の仕事・大阪万博
大阪万博のプロデューサーに就任してから、岡本太郎はどのように仕事をしたのでしょう。なんと岡本太郎は、いっさい命令しなかったそうです。
万博の際、岡本太郎のもとに集まったのは、クリエイター陣の他、役所で働く人たちも当然含まれました。太郎は前述した「0点でいい」の名言で、彼らを鼓舞することはしましたが、進捗を逐一報告させたりすることはしなかったといいます。大プロジェクトを抱えても、任せると決めたら全て任せ、それが良い方へ向かったのです。
また、万博の際に太郎が制作した「太陽の塔」は、その当時、あらゆる層から散々批判されました。「技術の進歩こそ人類の幸福」という万博のテーマに、全くそぐわない作品を、敢えて投下したのです。反骨の精神そのままに、仕事でも当然のごとく、それを貫いた人でした。