織田信長の生涯
うつけと呼ばれた少年のころ
織田信長は1534年5月に尾張国(愛知県西部)の那古野城にて、当時尾張国内の実力者であった戦国武将・織田信秀の子として生誕しました。幼名は吉法師といいます。
幼少のころは守役の平手政秀らの養育を受けて育ちました。が、成長するにつれて、とても大名の息子とは思えない恰好で家臣の息子や城下町に住む少年たちを引き連れ、領内の野山を駆け巡るなどをしていたため、「尾張の大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれるようになりました。
しかし、父である信秀はそんな吉法師に非凡な才能を感じて、ひそかに期待していました。元服し「信長」と名乗ったあとも奇矯な振る舞いは続きましたが、実はこれは彼なりの軍事教練であり、国内の状況を知るためのやり方だったのです。
尾張統一
1551年、信長の最大の理解者であった父・信秀が急死し、信長が織田家の当主になりました。彼が当主になったころの織田家は尾張の国内さえも完全に統一しきれていないうえに、国内に敵を大勢抱えている状況でした。さらに東には東海地方最大の大名である今川義元が侵攻の機会を狙っている状況です。
そのうえ、織田家の家臣の中には反信長派も大勢いて、いつ家中で反乱が起こるかすらわからない状態であったため、かなり危機的な中での家督相続でした。
そんな中で信長は、国内外の敵に着実に対処していきました。1555年には当時の尾張の中心であった清洲城を攻め落として本拠を移し、1556~7年には家中の反信長派を屈服させたうえで、1559年にはついに尾張国内の統一を達成しました。
桶狭間の戦いから美濃制圧まで
当主になって数年で尾張国内を統一した信長ですが、1560年に東の今川義元が大軍を率いて尾張に攻め込んできました。動員できる兵力は少なく、もはや織田家滅亡かと思われましたが、5月19日になって信長は出撃、桶狭間で休息をとっていた義元を奇襲し、見事に討ち取ることに成功しました。この勝利で織田信長の名は全国に知られることになりました。
その後、信長は北の美濃(岐阜県南部)の攻略に手をつけます。美濃を治める斎藤家は兵も多く、居城の稲葉山城(のちの岐阜城)も攻めにくい城であったため数年を要しましたが、信長は粘り強く敵の武将を寝返らせたり、三河(愛知県東部)の徳川家康など周辺諸国と同盟を結んだりしました。1567年にようやく美濃を制圧し、本拠をここに移すことになります。
上洛と信長包囲網
美濃を制圧し、稲葉山城を岐阜城と改めて居を移った信長は「天下布武(武力で天下を支配する)」をスローガンとして掲げるようになります。1568年には室町幕府将軍の弟だった足利義昭を奉じて上洛を果たします。この時、織田信長は35歳でした。
上洛の後、近畿の主要な地域を支配下に治め、将軍になった義昭の後見人となった信長でしたが、まもなく自らに実権がないと悟った義昭はひそかに全国の諸大名に信長打倒の檄文を発しました。
1570年から73年にかけて、信長は信長包囲網という周辺大名との戦いに明け暮れます。中には寺社勢力を焼き討ちにしたこともあるほど激しいものでしたが、1573年に将軍の義昭を京都から追放したことでひとまず決着がつきました。
天下統一への道程
将軍の義昭を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長は天下統一へと邁進します。1575年には甲信地方の大大名である武田家を長篠で破り、1580年には長年信長を苦しめてきた一向一揆との戦いにも決着をつけました。
一方で、1576年からは近江(滋賀県)に安土城を築き本拠とするとともに、主だった武将に大軍を与えて全国各地の平定に向かわせます。このように織田信長の全国平定事業が進んだため、長く続いた戦国時代も終わりが見えてくるようになってきました。
本能寺の変―織田信長の夢の終焉
天下統一が目前に迫った1582年5月、信長は中国地方を攻略中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の要請を受けて援軍のために出陣しました。
その途中、京都の本能寺に宿泊していましたが、6月2日に突如、家臣の明智光秀の襲撃を受けます。信長はわずかな親衛隊とともに奮戦しますが、大軍を引き連れた光秀に追い詰められていきました。
とうとう信長は本能寺の建物に火を放つと、自らその炎の中で自害して果てました。時に織田信長は49歳、日頃から口癖のように言っていた人間五十年に及ばない最期でした。
織田信長の人物像
長く続いた戦国時代を終焉間近に導いたカリスマである織田信長。彼の性格はどのようなものだったのでしょうか。
織田信長といえば「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」といわれるように、自分に逆らう者には僧侶や女子供であっても容赦しない残忍さと短気さとを持ち合わせている人物とされています。
しかし、一方で新しい物好きで合理主義的な面も持っていました。このため、当時最先端の兵器であった鉄砲に注目し、それが天下統一を早めることにもなりました。さらに身分にこだわらず、様々な武将や庶民と交流を持っており、優れた才能があれば登用したため、織田信長の家臣団には様々な出自の武将がいました。
そして神仏や古い権威を信じることもありませんでしたが、それが新たな秩序を築く意志にもつながりました。
織田信長が残した名言・格言
戦国の世に出現した英雄、織田信長。その信長も多くの名言や格言を残していますが、それらの名言や格言は単に武将としてだけでなく、戦国の世を終焉に導いた個性の強い人物として残されたものも少なくありません。没個性になりがちな現代社会の中でも、自分らしく生きていくうえで参考になることでしょう。ここでは人生や仕事に役立つ織田信長の名言・格言を紹介していきます。
「運は天にあり」:起死回生の桶狭間の戦いの際の名言・格言
織田信長の生涯のターニングポイントとなった桶狭間の戦いに臨む際の名言・格言と言われています(『信長公記』より)。今川義元率いる2万とも4万ともいわれる大軍に奇襲を仕掛けることで勝利を収めた信長ですが、朝からの戦いで疲れている敵に対し、味方は十分に力があるため、「ただひたすら力の限り戦えば、あとは運が切り拓かれる」という意味合いでこの名言・格言を発しました。
ちなみに「運は天にあり」といえば、越後(新潟県)の戦国大名である上杉謙信も残した名言・格言で、こちらも大河ドラマの影響もあって有名です。
「仕事は探してやるものだ。自分で創り出すものだ。」:現代の社会人にも通じる名言・格言
この名言・格言を聞くと、おそらく読者の方の中にはドキリと来るという人も少なくないでしょう。群雄が割拠する戦国時代の中から、織田信長という人物が天下統一にリーチをかける段階にまで上り詰めることができた理由の1つが、彼の持つ革新性にありました。
早くから鉄砲に目をつけたり、全国平定の段階で有能な家臣に大規模な軍団を任せて地方攻略を担当させたりするなど、当時としては非常に最先端の考え方を持っていました。
新しいことを始めるときは経験がない分、リスクを伴うため、最初からあきらめてしまう人も少なくありません。しかし、そのリスクをものともせずに始めた人が世界を、そして歴史を作るのです。今までの考え方が通用しなくなった今の時代にこそ、この名言・格言が必要ともいえます。
「攻撃は一点に集約しろ 無駄な事をするな」:信長の戦略・戦術の真骨頂を示す名言・格言
今風に簡単に言えば、「今やるべきことに集中して全力で当たれ」という意味の名言・格言です。織田信長は天下統一に向かう中で何度も危機に見舞われています。その最たる例が1570年から73年にかけて将軍足利義昭が呼び掛けて敷かれた信長包囲網でした。
当時の信長は北の浅井や浅倉、東には武田信玄、西には一向一揆や三好党など四方八方に敵を抱えて身動きのできない状態でした。そこで信長はなるべく戦わずに済む敵には前もって根回しをして、最優先で戦うべき敵を絞り込み、この危機を脱しました。
この名言・格言にある考え方は現代人の仕事の仕方にも通じます。複数の仕事をまとめてやるよりも1つの仕事に集中し、短時間で仕上げる方が生産性が上がります。ぜひとも活用してみると良いでしょう。
「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん」:能力主義者としての信長
織田信長は身分や出自にこだわることなく有能な人物を採用したため、能力重視の人物でもありました。この名言・格言はそんな信長の一面を示したものです。
有名な例が豊臣秀吉です。彼は尾張の百姓の出身ですが、信長に才能を見出されて、本能寺の変のころには中国地方を平定する軍の司令官にまでなりました。信長の死後には彼の遺志を継いで、天下統一を果たしたのはとても有名な話です。
信長を本能寺に襲った明智光秀も、浪人生活ののちに将軍足利義昭の家臣を経て信長に仕えました。内政手腕や軍事面の才能にとどまらず、朝廷や幕府でのしきたりや教養の高さなど、マルチな才能を持っていた人物です。
信長が天下統一間近まで来ることができたのは、有能な武将が大勢いたことも理由の1つです。
「いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である」
幼少のころから「大うつけ」と呼ばれ、天才とも言われる織田信長。彼の才能は当時の人々にはとても考えが及ばないほどでした。そのためにこの名言・格言は信長でなければとても言えないようなものといえます。
実は天下統一という構想も、信長が初めて打ち出したものでした。当時の戦国大名は生き残りのために自国を強くすることを考えていた人がほとんどで、中には室町幕府の権威とは関係なしに独自の勢力圏を構築・維持することを考えていた者もいました。そのため、天下統一という構想を考える余裕のない者が圧倒的に多かったのです。
その中で信長は天下統一に向かって着実に戦略を考えて実行し、時には革新的なやり方も用いました。当代きっての変わり者であった信長だからこそできたことです。
「理想を持ち、信念に生きよ」
いかにも某国民的人気漫画のキャラが言いそうな言葉ですが、実はこれも織田信長が残した名言・格言の1つです。そして、信長自身の生涯もこの名言・格言を体現したものでした。
尾張の小大名の出身でありながら、それに満足せずに天下統一を目指し、既存の体制を認めずに新体制の構築を目指し、また、新しいものをどんどん取り入れたという意味で強烈な個性を放つ人物でした。彼の時代から400年以上たった現代の私たちの間で信長が人気なのも、その強烈な個性や生き方が理由です。
現代社会では無難な生き方をすることが良しとされがちですが、そういう風潮では自分なりの理想や信念を貫くことは難しく、個性を殺しかねません。自らの個性を輝かせていきたいという人にはこの名言・格言は覚えておいて損はありません。
「是非に及ばず」:本能寺の変の際に放った言葉
織田信長が信頼のおける家臣であった明智光秀に襲撃された本能寺の変で言ったとされる名言・格言です。信長の残した名言・格言の中でももっとも有名なものといえるでしょう。
この「是非に及ばず」の解釈は様々ですが、「あれこれ考えても仕方がない、最後まであがきぬこう」という意味もあれば、「光秀が攻めてきたのは俺の責任だ」とか「光秀のような名将に襲われてはどうしようもない」というあきらめの意味もあります。
が、この名言・格言のどの解釈で考えても信長の潔さが伝わってきます。いずれにしても、信長は迫ってくる光秀の大軍にわずかな小姓や兵とともに槍や弓矢をとって戦い抜きました。何かをやるうえで、潔さをもって事に当たりたいという人にうってつけの名言・格言といえます。
戦国の世の強烈な個性が残した名言・格言
戦国時代の英雄である織田信長が残した格言や名言を見てきました。戦国時代に合って天下統一を目指した強烈な個性の持ち主であるだけに、1人の人間としての生き様を表現したものが多いです。
社会の中ではなかなか個性というものを大切にして生きていくのは難しいと思わされることも少なくありませんが、それでも個性を大事にして生きていくうえで、信長の名言・格言は心の支えになることでしょう。